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仏像の歴史:日本

歴史
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はじめに

インドの経典や仏像をモデルに再現を試みた仏像の歴史は鎌倉時代・室町時代に変容。

アレンジ による仏像が増えパターンを探すのは難しくなりました。

仏像のカオスな状態の現在、私たちがどのようにして仏像と向き合っていくのか、 楽しみ方を探ります。

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輸入

日本に仏教が伝えられた時期は6世紀の中頃です。

日本ではじめて知られた仏像は、まず釈迦如来像です。

552年に百済聖明王が献上した仏像が釈迦如来像だったといわれます。

これに続き、584年に百済から伝えられた仏像が弥勒菩薩像でした。

6世紀後半:仏像製作のスタート

天台宗四天王寺。大阪市天王寺区四天王寺1−11−18。2022年7月7日に撮影。

日本で仏像が積極的に作りはじめられた時期は聖徳太子の時代です。

587年に聖徳太子が蘇我馬子とともに物部氏と戦ったとき、四天王像を作って頂髪においたことにはじまります。

これが四天王寺建立の誓願になりました。

推古天皇の時代になると、飛鳥寺・法隆寺などをはじめ、多数の寺が建立されはじめます。

7世紀前半(飛鳥時代)

仁王像タイプ阿。2023年6月7日、聖徳宗総本山法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1−1−1)にて撮影。

この時代に造立された仏像で多いのは釈迦如来像と釈迦三尊像です。

たとえば、飛鳥大仏や戊子年銘釈迦三尊像(法隆寺)です。

ついで、四天王寺四天王像や弥勒菩薩像もこの時代に造立されたといわれます。

また、639年、に新帰朝の恵が無量寿経を講じ、阿弥陀如来像が作られました。

この時代、薬師如来像や観世音菩薩像などが作られていたともいわれますが、文献的に確証がありません。

650年、漢山口・直大口が詔を奉って千仏像を刻り奉ったと「日本書紀」には記されています。彼らは現存の法隆寺金堂四天王像の造立に関係しました。

7世紀後半:白鳳時代

7世紀後半、さらに仏像製作は盛んになり、仏様の種類も増えていきます。

この時期は大陸との交渉が頻繁で、仁王経などの新しい経典や仏像がつぎつぎに採り入れられました。

660年、仁王般若会が行なわれ、新しい仏像が取りあげられました。

ナム
ナム

671年、内裏で百仏像の開眼供養が行なわれ(仁王会の本尊か)、673年には河原寺で一切経を書写していることが知られています。

また、676年に仁王経・ 金光明経を四方諸地域に説いたこと、また薬師経を説いて薬師寺の建立誓願が発せられたり、観音経を読ませて観音像を作ることなども行なわれました。

このように、7世紀後半には仏教をかなり幅広く理解しようとする風潮が定着していました。

これに伴ない、仏像の種類も次第に多くなりました。現存するものだけでも、次のように多種になります。

当麻寺

釈迦如来像・阿弥陀如来像・弥勒如来像

那智山経塚遺物・法隆寺壁画

弥勒菩薩像・観世音菩薩像・十一面観世音菩薩

法隆寺壁画

長谷寺千仏銅盤

法華多宝塔(奈良県桜井市)

法隆寺塔

文珠と維摩問答像・涅槃像・分舎利像・弥勒浄土像

法隆寺中門

金剛力士

当麻寺・法隆寺

四天王

法隆寺食堂

帝釈天

薬師寺塔内

釈迦八相図

8世紀:天平時代

さて、天平時代(≒8世紀)になると日本仏教は中国仏教をさらに積極的に導入。

それとともに、仏像もますます多彩なものとなっていきます。

717年、法相宗を学ぶために唐に入り、735年に帰朝した玄昉。

彼は約19年の在唐留学を終えて、5000あまりの経巻をもたらしました。

今の奈良市・大和郡山市にあたる平城京で、法相宗が奈良仏教の主柱として広まっていきます。

この時代に造立された新しい仏像は、東大寺や唐招提寺の盧遮那如来です。

華厳経によると、これは釈迦如来を出現させた根源の如来です。

盧遮那如来は、従来の如来像をベースに、台座光背などへ千体の釈迦像を表しています。

また、8世紀には雑部密教(雑密)の経典がたくさん輸入され、各経典の本尊が多く作られました。

次のような具合です。

このように、後代にも信仰が続いている密教的な仏尊が定着しだしています。

なお、西大寺資財帳には諸天・神王像なども多数に安置されていました。

ホットケーキ
ホットケーキ

ふつう、如意輪観音像は六臂(六本の腕)をしていますが、二臂像もありました。それは8世紀の百年間に辛うじて見られるものです。

ナム
ナム

如意輪観音に似た仏像が中国の敦煌やインドのエローラの遺物にも確認できます。

9世紀:平安時代

9世紀になると、空海や最澄らの入唐八家が請来した経典・仏像・仏画が大きな影響をもちました。

それまで輸入されていなかった明王像天部像などが多彩に製作されました。

また、大日如来を中心とした両界曼荼羅図をはじめとして、別尊を中心とした別尊曼荼羅図も描かれました。

これらの仏像は、高野山金剛峯寺、東寺、延暦寺、園城寺など、真言宗天台宗の中心寺院だけでなく、これらの系統に属する寺々においても製作されました。

10世紀:平安時代

信仰パターンの変化

この頃から、日本の仏教は、理念的な浄土信仰から一転。

まず、現世利益的な信仰を起点に、ついで、入信後に即身成仏への理想を体得するという信仰パターンへと移りました。

そのため、とくに別尊に対する信仰が強くなり、その仏尊像が製作されるようになりました。

阿弥陀信仰の広がり

この時代、もう一つの流れがありました。

それは阿弥陀信仰の広がりです。

阿弥陀堂の建立とともに、本尊たる阿弥陀如来像の造立が活発に。

人間の臨終にさいして、その枕辺に阿弥陀如来が来迎するという教えをあらわした来迎像がたくさん製作されました。

  • 阿弥陀三尊坐像(阿弥陀如来像・観音菩薩坐像・勢至菩薩坐像):三千院(京都市左京区)
  • 九品来迎図:平等院鳳凰堂(京都府宇治市)
  • 阿弥陀聖衆来迎図:高野山(和歌山県伊都郡)

など。

鎌倉時代

平安時代からの継承

鎌倉時代の仏像製作は、平安時代の伝統をうけつぎました。

また、浄土信仰の流行によって、当麻曼荼羅の摸本がたくさん作られました。

来迎図では、仏教を信仰する人たちには通仏教的な臨終仏として信仰され、さまざまに描かれました。

釈迦信仰

この時代には、釈迦信仰も復活。

釈迦涅槃図や釈迦入相図などが作られたり、嵯峨清涼寺に安置してある三国伝来という釈迦像の模作が多く作られたり。

神仏習合の美術

平安後期の時代からはじまっていました。

仏教と神道とを融合した信仰にもとづくもので、平安時代の蔵王権現像などは早い事例です。

鎌倉時代には、神と仏を一つの画面に描くものや、本地仏の曼荼羅を社殿の上に描くものなど、さまざまな形式のものが製作されました。

とにかく、鎌倉時代の仏像にはアレンジ作品が増えました。

室町時代

室町時代になると、当時の人たちのアイデアによって形姿にアレンジを加えたものが、さらに増加。

つまり、インド伝来の経典儀軌には合致しない仏像が目立つようになりました。

他方で、民間信仰も活発になり、必要とされる仏像たちがバラエティに飛んでいったと、積極的に評価することもできます。

まとめ

鎌倉時代まで、日本仏教はインドや中国から、経典や仏像をとおして仏教を学びました。

この模倣段階が終わり、日本仏教は新しい段階に入ったと私は思います。

室町時代には、いろんな民間信仰があちこちの土着信仰と手を携えて、いろんな地域やいろんなお寺で、いろんな仏像ができました。

まとめ:仏像の楽しみ方

各仏像が参拝者の方々に迎合されていればいいのではないかと、現代から私は思います。

仏像の顔や表情、姿勢や持ち物、台座や付き人(眷属)たち。

仏像にはそのものとして楽しむ要素がたくさんあります。

国宝や重要文化財には、鎌倉時代までのものが多いですが、それ以降の作品からでも、仏像がもつ姿をいきいきと楽しく感じ取れれば、自分にとって貴重な時間を使ったと思えるでしょう。

そして、各仏像のもつお経や真言を唱えることで、発生を通じたコミュニケーションを 仏様と取ることができます。

そういう些細な行ないが、また、仏像や仏教の歴史を作っているわけでもあります(^^)

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