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女性仏像の歴史:吉祥天と辯才天

仏像スタイル
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女性仏像の誕生

NileによるPixabayからの画像

むかし、大乗仏教の時代に女性を表現した仏像は存在しませんでした。

女神を守護神としてとりあげたのはヒンドゥー教でした。いったん、経典のなかに説かれると、塔周囲の塔門や石垣に女性仏像が誕生しました。

もっとも、仏教において女性を表した仏像は、インドの女神を仏界に採り入れた天部像だけ。

なかでも、日本での展開は吉祥天像と辯才天像に限られたものです。

ここでは、民間信仰との関わりから、吉祥天辯才天の仏像についてまとめています。

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日本でのはじまりと展開

この影響は日本にも到達。

女神像が入ってきたのは8世紀後半でした。8世紀後半は、日本史の時代区分では奈良時代後半にあたります。

吉祥天像と辯才天像の製作

この頃の女神像で現存するものといえば、吉祥天辯才天の2種類にかぎられます。

いずれも金光明経に説かれていて、それをきっかけに信仰されはじめました。ヒンドゥー教でも盛んに信仰されていた女神たちです。

この二種の女性仏像のうち、ひろく信仰されたのは吉祥天像です。

吉祥天信仰

8世紀をとおして吉祥天は絶世の美女として修行者の憧れの的になったようです。

「霊異記」が伝えるには、僧侶が画像の吉祥天に懸想したとのこと。

仏教において、吉祥天は鬼子母神の娘で、毘沙門天の妃でもあります。

インド仏教美術ではラクシュミー(Lakṣmī)と混合して、福徳を施す神でした。

手に如意宝珠をもつ吉祥天は端正な美しい女性仏像で、その姿は平安時代以後の像にも継承。

その信仰や造像は鎌倉時代初期まで行なわれていたことが、遺品から知られます。

しかし、吉祥天信仰も南都仏教の寺院のみに伝えられていたようです。天台宗真言宗の寺院にはほとんど作例がありません。

12世紀後半ごろの像が醍醐寺にありますが、これは醍醐寺が密教だけでなく、南都仏教の流れも継承している特殊なケースでしょう。

辯才天信仰

河川の神様としての辯才天像は、八臂をもって強大な威力をしめす仏様。

8世紀後半に、強い女性像が好まれなかったのでしょうか。

この時代の遺品は東大寺法華堂の一体だけしか現存しません。また、辯才天信仰は平安時代にもあまり広がらず。

しかし、鎌倉時代になると、二臂で琵琶をもった辯才天の像が作られ、信仰ブームに。

鎌倉時代の終わりごろから近世まで、八臂坐像の女性仏像が真言宗寺院において信仰されたらしく、多くの遺品があります。

また、河川の仏様としての性格から、辯才天は龍信仰と結びついて、蛇の姿をした辯才天像まで作られました。

まとめ

ここでは、インドと日本でのスタートに絞って、女性仏像の歴史をたどりました。

インドで製作の根拠をもった女性仏像は、日本でもさかんに製作されました。

日本での女性仏像の歴史は吉祥天像と辯才天像に限られたものでした。

8世紀をとおして南都仏教では吉祥天像が好まれました。その像のもつ天女形が、どうやら僧侶たちのハートをつかんだようです。

辯才天像がさかんに作られた時代は、大きく下ること鎌倉時代。

龍信仰や蛇信仰とともに、また八臂像の形で広まり、独特の仏像として好まれていきます。

ここでは、民間信仰との関わりから、吉祥天と辯才天の仏像について紹介しました。

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