大阪メトロ谷町線でお寺めぐり
PR

天台宗

宗旨・宗派
この記事は約4分で読めます。
記事内に広告を含みます。
ホットケーキ
ホットケーキ

仏教の宗旨の一つ。平安時代の初め、唐から帰国した最澄が伝え、比叡山に延暦寺を開いて教えを広めました。

スポンサーリンク

基本情報

天台宗てんだいしゅうとは中国由来の日本密教の1つ。

  • 本山:天台山国清寺(中国)、比叡山延暦寺(日本)
  • 開祖:智顗(中国)、最澄(日本)
  • 本尊:(不定)
  • 教え:五時八教、一心三観
  • 根本経典:法華経
  • 別名:天台法華宗、台宗、台家、円宗など
スポンサーリンク

特徴

中国天台宗

中国仏教のなかで代表的な一宗。

法華経を根本経典として天台大師の智顗が開創しました。

五時八教の教判を立てて、とくに一心三観の実践を説きます。

智顗の著書3点、法華玄義・法華文句・摩訶止観(三大部)を教義大成書として重視。

日本天台宗

唐代の天台宗僧侶である荊渓湛然(妙楽大師)の弟子、道遽と行満が、9世紀初頭、日本の僧侶であった最澄(伝教大師)伝法

9世紀をとおして、天台密教(台密)として教学的に発展しましたが、同時に密教化も深化し、以後の普及は限定的でした。

歴史

インド

天台宗のルーツは古く、インドの僧侶だったナーガールジュナ(龍樹)が形成。

中国

中国北斉時代の慧文・南岳・慧思たちをとおして智顗に伝えられました。

智顗が天台宗の大成者(開祖)で、天台山に天台宗の基盤ができてから、涅槃宗を吸収し天台宗を確立しました。

智顗のあと、智威→恵威→玄朗→湛然と継承され、湛然の時点で三大部の注釈が書かれ、衰頽してきたた宗勢が復活。

そのあと、845年の仏教弾圧(会昌の破仏)や、唐末五代の戦乱のなか衰微していきました。

宋代以降、趙宋天台として復興し、山家山外の論争や明末の智旭などにおいて注目されましたが、衰えは止まらず。

日本

荊渓湛然(妙楽大師)の弟子、道遽と行満が、9世紀初頭に日本僧侶の最澄に伝法

最澄は比叡山に開創し、円教・禅・円戒・密教の4宗合一の宗風を形成しました。

確立と密教化

最澄の没後、円頓戒壇えんどんかいだんが設立され、天台宗が確立していきます。

最澄の弟子だった円仁や円珍らが中国留学(入唐)し、天台密教(台密)として教学的に大きく発展させました。

9世紀後半、安然の代に強く密教化しました。

天台宗は、最澄の弟子の義真(781~833)を 第1世天台座主として以降、天台座主が治めてきました。

山門と寺門の対立

しかし、円仁・円珍の法系間に確執が生じ、座主選出の問題から分裂。

円珍の門徒らは山を下って、園城寺(三井寺/滋賀県大津市園城寺町)を根拠地としました。天台寺門宗の成立です。

この対立から、園城寺側を寺門といい、比叡山側を山門というようになりました。

4宗合一の瓦解

山門の展開と分派

山門では良源の代に、教学面で本来の円教に帰ります。

そして、多数の弟子を輩出して宗勢が上がりました。

さらに、良源の弟子の源信は、浄土思想を鼓吹して、この法系から恵心流が勃興。

同じく良源の弟子の覚運がもつ法系から檀那流が勃興。

恵心流と檀那流をあわせて恵檀二流いい、これをもとに、台密の系統は十三流の分派に広がりました。

浄土思想の鼓吹

浄土思想の鼓吹から、院政期に良忍が融通念仏宗を形成。

鎌倉時代には、源空(法然)が浄土宗、その弟子の親鸞が浄土真宗を形成。

禅宗の勃興

禅からは、栄西の臨済宗や道元の曹洞宗などの禅宗も勃興。

円教と円戒の展開

円教からは日蓮の日蓮宗、円戒からは戒称一致を説く真盛の真盛派が発生。

中近世の天台宗

新しい宗派を生みつづけた天台宗では、平安時代末期から伝尊ぶ姿勢(いわゆるロ伝法門)を生みました。

他方で、教学的には衰退に向かいました。

また、僧兵権力が比叡山を支配して、政権争奪の走拘となったことも衰微に追い打ちをかけました。

とくに、織田信長の焼打ちにより一山は焼土に。

江戸時代、東叡山や日光山の開創により関東進出が順当にすすんで、ようやく旧態の隆盛が復活。

また、江戸幕府の学問奨励により教学も復興しました。

現在は、

  • 天台宗(比叡山延暦寺)
  • 天台寺門宗(園城寺)
  • 天台真盛宗(西教寺)

などが流れをくんでいます。

関連情報

  • 天台宗…大阪市内にある天台宗寺院の一覧。

コメント お気軽に♬

タイトルとURLをコピーしました