概要

空海の似顔絵イラスト by いらすとや
空海とは真言宗の開祖。
密教の二大眼目として、個人の宗教的人格の完成を目指す即身成仏と、国家社会の建設を目指す鎮護国家・済生利民を標榜しました。
綜芸種智院(京都)は世界最初の庶民学校で、満濃池(香川県)の築堤は農業開発の大事業。
- 灌頂号:遍照金剛
- 諡号:弘法大師(921年10月27日)
- 幼名:佐伯真魚
- 生誕地:讃岐国多度郡弘田郷屏風浦(現香川県仲多度郡多度津町・善通寺市)
- 生没:774年6月15日(前年説あり)〜835年2月1日
- 父親:佐伯直田
- 母親:阿刀氏
- 外舅:阿刀大足
幼少期から入唐前まで
幼少より阿刀大足に儒学を学びました。
- 788年上京阿刀大足に伴なわれて上京(長岡京)
- 791年進学大学明経科に入学
- 793年剃髪石淵路の勤操に従って剃髪し教海と称し、如空と改称
- 795年改名東大寺戒壇で具足戒を受けて、空海と改名(疑問視多い)
- 797年執筆小説「三教指帰」を完成
大学では儒教・道教・仏教を学び、また、一沙門から虚空蔵求聞持法を授り、阿波太滝岳・土佐室戸崎・伊予石鎚山などで修行。
京都の栄華を厭い、出家の志を述べた小説「三教指帰」を執筆。
この小説はリーディングドラマ風の思想劇で、儒教・ 道教・仏教の三教を批評しながら、仏教が最も勝ることを明かにしています。
以後、804年(31歳)の入唐まで、消息が不明です。
だいたい、次のことをしていたと考えられています。
- 南都諸大寺で仏教を研鑽
- 山野を跋渉して久修練行
- 大和久米寺東塔下で大日経を感得
長安への道のり
- 804年7月6日出発藤原葛野麻呂の遺唐船(第一船)に便乗して九州肥前田浦を出帆
- 804年8月10日漂着中国の福州長渓県赤岸鎮に漂着
- 804年10月3日回航福州に回航
- 804年11月3日再出発福州を出発
- 804年12月21日到着長安へ到着
長安での活躍
805年、西明寺に留住して般若三蔵に学びます。
ついで、青龍寺の恵果を訪問し、6月上旬に灌頂壇に登り、7月・8月に両界曼荼羅の秘法と伝法阿闍梨の灌頂を受け、中国密教の正系を継承しました。
恵果は李真らに両界曼荼羅10鋪を描かせ、楊忠信らに密教法具を鋳造させ、または生らに密典を書写させて、空海 に付属しました。
また、百余部の諸尊法なども伝授して、恵果は12月15日に60歳で入滅。
空海は門下を代表して、墓碑銘を撰しました。
また広く唐の文物を学び、文人達と交遊もありました。
806年4月、台州で多数の仏典などを収集。
帰朝から入定まで
806年10月、高階遠成(遣唐副使)の帰国船で九州へ帰着。
22日付で、遠成に託して請来目録を献上しました。
献上した請来目録は次のとおり。
- 新訳経…140部247巻
- 梵字真言講など…42部44巻
- 論疏章など…32部270巻
- 曼荼羅伝法阿闍梨など…10鋪
- 道具…9個
- 恵果付属物…5個
- 付法相承の付嘱…8個
- 舎利…80粒
この頃、筑紫の観世音寺に滞在して、のちに和泉の槇尾山寺に入住したといわれます。
- 810年高雄山寺(神 護寺)で鎮護国家の修法を実施
- 811年劉希夷集・徳宗皇帝真蹟・狸毛筆などを嵯峨天皇に献上。11月9日、乙訓寺の別当に任。
- 812年11月15日、最澄以下4人に金剛界灌を授与。12月14日、胎蔵灌頂を最澄以下145人に授与。最澄との交流かスタート。
- 813年5月、弟子たちに三昧耶の厳守を強制
- 815年東国布教のため弟子康守安行を徳一の許に派遣
- 816年6月、高野山に修禅の一院建立を上表。7月、勅許を取得して真言宗開創に着手
- 821年5月、讃岐に満濃池を築池
- 822年奈良東大寺に真言院を建立して有部律の道場に
- 823年1月、東寺を 給預され密教の根本道場とし教王護国寺と改称。11月、東寺から50口の定額を付与。
- 825年大和国益田池の碑を撰文
- 828年東寺の東隣に庶民の子弟教育として綜藝種智院を建立
- 834年1月、宮中真言院で毎年正月に真言の修法を奏上して勅許(これが後七日御修法の始まり)。12月24日、東寺三綱の勅許。
- 835年1月22日、真言宗年分度者3名を被許諾。3 月、高野山で入定。
十大弟子
- 真済
- 真雅
- 実慧
- 道雄
- 円明
- 真如(高岳親王)
- 杲隣
- 泰範
- 智泉
- 忠延
主著
- 十住心論・秘蔵宝鍮…人間の心の発達段階に応じて広く思想・哲学・宗教を批判しながら真言密教の世界を明かにしたもの
- 文鏡府論…修辞学論
- 篆隷万象名義…日本最初の辞典
- 遍照発揮性霊集…詩文集
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