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不空

人物
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人物

不空ふくうとは、インド方面から中国へ移り、密教経典をたくさん漢訳した訳業家・僧侶です。

中国密教を広く深く浸透させました。真言宗八祖の一人。

翻訳した経典はとても多く、鳩摩羅什・真諦・玄奘三蔵とともに四大翻訳家の一人。

  • 705年(唐・中宗)~774年(唐・代宗)
  • 正式名称:不空金剛
  • 法諱:智蔵
  • 勅号:大広智三蔵
  • 諡号:不空三蔵、大辯正広智不空三蔵
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キャリア

歴史

出身地に諸説あり。北インド、中央アジア、セイロン島など。

705年、北インドのバラモン出身の父と康居人を母として西域に誕生。

早くに父を失い、叔母に連れられ、714年に甘粛省の武威郡に来て、717年頃に長安に入りました。

金剛智との出会い(洛陽)

720年頃に洛陽へ行き、高僧の金剛智と出会い、弟子となりました。

金剛智のもとでは、おもに金剛頂経系統の密教を学び、725年頃に、 有部律によって金剛智から具足戒を授かります。

741年に金剛智が没し、入竺を志して翌742年に広州へ。

さらに、弟子の含光・恵辨らとインドへ向かい、セイロンに到達。

龍智との出会い(セイロン)

ここで龍智(普賢)阿闍梨に出会い、金剛頂経系の秘法を授かったうえ梵本500部を入手。

746年に長安へ戻りました。

ふたたび唐へ

帰唐後、たびたび宮中によばれて、帝以下百官に灌頂を授けたり、請雨法・止雨法を修したりして、玄宗から智蔵の名を授けられました。

749年、再びインドへ向かいましたが、途中で罹病。

韶州で翻訳を継続しました。

753年、河西の節度使舒翰の依頼によって勅が下り、長安に迎えられました。

その後も河西へ移り、開元寺に住して翻訳と密教宣布に努めます。

内乱・外寇の8世紀中頃

755年、安禄山の乱にさいし、唐・粛宗のために抜賊鎮圧の修法を行ないました。

さらに760年、大興善寺に群兇撲滅のために灌頂道場を開くことを出願。

763年、唐・代宗に対して灌頂道場の設置や儀式の恒久化を請いました。

内乱・外寇の絶え間ない8世紀中期、一貫して唐王朝の安泰を願って尽力したのです。

このような不空の行ないを高く評価した朝廷は、護国経典の一つである「仁王経」の再訳と講讃に、全面的な援助を与えました。

大広智三蔵・特進試臚卿の授与

また、765年、多年の国家に尽くした功により、師僧の金剛智に「大弘教三蔵」の号と「開府儀同三司」の官が追贈され、不空自身にも「大広智三蔵」の号と「特進試臚卿」の官名が授けられました。

これを受けて不空は、文殊菩薩の旧蹟である五台山(中国山西省忻州市)に金閣寺を造営し、密教の道場としました。文殊信仰を全国に勅旨をもって普及させていきます。

晩年

771年、自ら翻訳した密教経軌77部101巻の目録を呈上し、「大蔵経」編入の勅許を得ました(表制集3)。

774年、病臥。

唐・代宗は自ら見舞いにいき、6月に不空が大興善寺に寂滅すると、3日間にわたり廃朝し、諡号を授けました。

こうして不空は、真言付法の6祖に数えられるようになったわけです。

業績

僧侶として

密教付法第六祖とされ、空海に法を伝えた恵果ら六大弟子をもちます。

不空の弟子のうち代表的な人物に、含光・慧超・恵果(正嫡)・慧朗・元皎・覚超の6人がいます。

唐朝の信任が厚く、五台山に密教道場を造ったり、宣教活動をしたり、とにかく社会的影響が大きい人物。

訳業家(翻訳家)として

金剛頂経」をはじめ80部以上の密教経典を漢訳しました。

など。

この訳業家(翻訳家)としての業績は鳩摩羅什玄奘とならび称賛されます。

とくに、サンスクリット文字(梵語)と漢字との、厳密な音韻の対応組織を確立した功績が素晴らしいです。

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