
大阪市内の仏教寺院をまわる自転車遍路。おもに山門、境内、お庭・お花、屋根瓦・軒瓦などを撮しています。
浄土真宗常宣寺の寺門(大阪市旭区)
- 宗旨:浄土真宗
- 宗派:浄土真宗本願寺派(西本願寺)
- 山号:指月山
- 院号:
- 寺号:常宣寺
- よみ:じょうせんじ
- 本尊:阿弥陀如来
- 創建:1397年
- 所在地:大阪市旭区生江
2022年1月18日に撮影。

浄土真宗常宣寺の寺門(大阪市旭区)。2022年1月18日に撮影。

浄土真宗指月山常宣寺の寺門(大阪市旭区)。2022年1月18日に撮影。
次は通用門です。

浄土真宗常宣寺の通用門(大阪市旭区)。2022年1月18日に撮影。

浄土真宗指月山常宣寺の通用門(大阪市旭区)。2022年1月18日に撮影。
プレート日本史:葱生城跡 (なぎじょう・あと)
敷地の外に、葱生城(なぎじょう)の跡地をとりあげた日本史プレートが2枚あります。常宣寺正門のすぐ横、北側。
葱生城跡は大阪市顕彰史跡第209号(旭区生江)に指定されています。
プレート1
大字「荒生」の東方に古城があったと伝承され、石山合戦の際に大坂本願寺によって造られた支城の一つとされている。 集落内の常宣寺には、本願寺八世門主蓮如筆の「六字名号」( ろくじみょうごう)が伝来している。葱生城跡 (なぎじょう・あと)/大阪市顕彰史跡第209号(旭区生江)
葱生城(なぎじょう)は石山合戦のとき大阪の本願寺がつくった支城です。葱生城集落内に常宣寺がありました。
石山とは大坂(いまの大阪)の俗称で、大坂に本拠をおいた本願寺は大坂本願寺や石山本願寺ともいいます。
プレート2
織田信長は、1568年に足利義昭を奉じて上洛を果たしたが、畿内には三好三人衆ら反信長勢力が残っていた。1570年、本願寺はそうした勢力とともに信長に敵対する道を選び、10年に及ぶ石山合戦が始まった。葱生城はその際に本願寺側が周辺の防衛線として51箇所に築いた出城の一つであったと考えられている。「葱生」は「薙生」・「荒生」とも書き、『東成郡誌』には「大字荒生の東方に古城址ありと伝ふ」とある。また、平安時代以降、榎並庄という荘園を形成していた村の一つであり、石山合戦の際には、この榎並庄の稲田を刈って、それを軍糧として本願寺に献じたという。当地はこのように本願寺教団と関わりの深い土地であったが、いつ頃から拠点となったのか、またどのような城郭であったのかも明らかでない。葱生城跡 (なぎじょう・あと)/大阪市顕彰史跡第209号(旭区生江)
平安時代以降、葱生村(荒生村)には榎並庄という荘園がありました。
1497年、蓮如が大坂御坊を建立。
1532年、山科本願寺の戦いで山科本願寺を焼失し、証如は大坂石山の大坂御坊へ移し、大坂本願寺(石山本願寺)と名づけました。
1570年、織田信長は大坂本願寺を中心とした一向一揆と対決しました。これを石山合戦といいます。合戦は10年間にわたり、1580年に織田が本願寺の顕如を大坂から退去させたことで終結。
葱生村は石山合戦で稲を軍糧として本願寺に献上していました。
なお、『東成郡誌』(1922年)刊行時、大阪市旭区は東成郡に含まれていました。葱生城はいまの城北公園ちかくにあります。「大字荒生…」の下りは『東成郡誌』1045頁に書いてあります。




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