大阪メトロ谷町線でお寺めぐり
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浄土真宗常宣寺(大阪市旭区)

旭区
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大阪市内の仏教寺院を自転車遍路。山門・境内・お花たちの長閑な風景を紹介しています。
最近の関心事は3つ。

  1. 仏像を写す
  2. 毎日の勤行に真言宗のお経を読む
  3. 終活に仏寺めぐりを考える
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浄土真宗常宣寺(大阪市旭区)

浄土真宗常宣寺(大阪府大阪市旭区生江3丁目27−18)。2022年1月18日に撮影。

浄土真宗指月山常宣寺(大阪府大阪市旭区生江3丁目27−18)。2022年1月18日に撮影。

次は通用門です。

浄土真宗常宣寺の通用門(大阪府大阪市旭区生江3丁目27−18)。2022年1月18日に撮影。

浄土真宗指月山常宣寺の通用門(大阪府大阪市旭区生江3丁目27−18)。2022年1月18日に撮影。

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聖典

  1. 釈迦如来による「浄土三部経」…無量寿経、観無量寿経阿弥陀経
  2. 宗祖・親鸞聖人が著述した主聖教…正信念仏偈(『教行信証』行巻末の偈文)、浄土和讃、高僧和讃、正像末和讃
  3. 中興の祖・蓮如上人の手紙…御文章

年間行事

公式サイトから要約します。

  • 修正会(1月1日元旦)…1年の始まりを阿弥陀如来に報告し、本堂にて法要。
  • 春季彼岸会(春分の日と前日)…迷いの此岸を離れ、悟りの彼岸に至る、み教えを聞き喜ぶ法要。→彼岸会
  • 花まつり(灌仏会かんぶつえ/4月8日)…釈尊の降誕を祝う楽しい行事。
  • 夏盂蘭盆会うらぼんえ…略称「盆会」。釈尊の弟子・目連尊者もくれんそんじゃの母が仏法によって餓鬼がきの世界から救われた故事から発生。歓喜会かんぎえとも。→盂蘭盆会
  • 秋季彼岸会(秋分の日と前日)…迷いの此岸を離れ、悟りの彼岸に至る、み教えを聞き喜ぶ法要。→彼岸会
  • 報恩講ほうおんこう(11月18日~19日)…親鸞聖人の命日を縁とし、お徳に感謝して僧侶が仏様の教えを聞かせていただく大切な集まり。恩に報いる集い(講)。→報恩講
  • 除夜会じょやえ(12月31日)…大晦日の夜、一年の行事の締めくくりとしてお勤め。その後、参拝者方々が梵鐘をつきます。

境内

境内はおもに次の建造物から構成されています。

  • 本堂
  • 山門
  • 鐘楼堂
  • 太鼓楼
  • 土蔵
  • 庫裏

可愛らしい仏像(お地蔵さん)がポツンと立っています。

2023年3月7日に大阪市旭区浄土真宗本願寺派常宣寺にて撮影。

屋根瓦・軒瓦

2023年3月7日に大阪市旭区浄土真宗本願寺派常宣寺にて撮影。

2023年3月7日に大阪市旭区浄土真宗本願寺派常宣寺にて撮影。

屋根瓦・軒瓦ともに特製の「常」が並んでいて、なんだか可愛らしく見えてきました。

2023年3月7日に大阪市旭区浄土真宗本願寺派常宣寺にて撮影。

2023年3月7日に大阪市旭区浄土真宗本願寺派常宣寺にて撮影。

2023年3月7日に大阪市旭区浄土真宗本願寺派常宣寺にて撮影。

プレート日本史

葱生城跡

敷地の外に、葱生城(なぎじょう)の跡地をとりあげた日本史プレートが2枚あります。

常宣寺山門(正門)のすぐ横、北側。

葱生城跡は大阪市顕彰史跡第209号(旭区生江)に指定されています。

プレート1

大字「荒生」の東方に古城があったと伝承され、石山合戦の際に大坂本願寺によって造られた支城の一つとされている。 集落内の常宣寺には、本願寺八世門主蓮如筆の「六字名号」( ろくじみょうごう)が伝来している。葱生城跡 (なぎじょう・あと)/大阪市顕彰史跡第209号(旭区生江)

葱生城(なぎじょう)は石山合戦のとき大阪本願寺がつくった支城です。

そして葱生城集落内に常宣寺がありました。

石山とは大坂(いまの大阪)の俗称で、大坂に本拠をおいた本願寺は大坂本願寺や石山本願寺ともいいます。

プレート2

織田信長は、1568年に足利義昭を奉じて上洛を果たしたが、畿内には三好三人衆ら反信長勢力が残っていた。1570年、本願寺はそうした勢力とともに信長に敵対する道を選び、10年に及ぶ石山合戦が始まった。葱生城はその際に本願寺側が周辺の防衛線として51箇所に築いた出城の一つであったと考えられている。「葱生」は「薙生」・「荒生」とも書き、『東成郡誌』には「大字荒生の東方に古城址ありと伝ふ」とある。また、平安時代以降、榎並庄という荘園を形成していた村の一つであり、石山合戦の際には、この榎並庄の稲田を刈って、それを軍糧として本願寺に献じたという。当地はこのように本願寺教団と関わりの深い土地であったが、いつ頃から拠点となったのか、またどのような城郭であったのかも明らかでない。葱生城跡 (なぎじょう・あと)/大阪市顕彰史跡第209号(旭区生江)

平安時代以降、葱生村(荒生村)には榎並庄という荘園がありました。

1497年、蓮如大坂御坊を建立。

1532年、山科本願寺の戦いで山科本願寺を焼失し、証如は大坂石山の大坂御坊へ移し、大坂本願寺(石山本願寺)と名づけました。

1570年、織田信長は大坂本願寺を中心とした一向一揆と対決。これを石山合戦といいます。

合戦は10年間にわたり、1580年に織田が本願寺の顕如を大坂から退去させたことで終結。

葱生村は石山合戦で稲を軍糧として本願寺に献上していました。

なお、『東成郡誌』(1922年)刊行時、大阪市旭区は東成郡に含まれていました。葱生城はいまの城北公園ちかくにあります。「大字荒生…」の下りは『東成郡誌』1045頁に書いてあります。

大阪府東成郡編『東成郡誌』を国立国会図書館デジタルコレクションで読む

慰霊碑

常宣寺には、第二次大戦全般と第3回大阪大空襲による犠牲者を鎮魂する観音像と慰霊碑が建っています。

第二次大戦全般と第3回大阪大空襲による犠牲者を鎮魂する観音像と慰霊碑。2023年3月7日に大阪市旭区浄土真宗本願寺派常宣寺にて撮影。

第3回大阪大空襲は6月7日昼に行なわれ、B29が409機、P51が138機来襲し、おもな照準は次のとおりでした。

  • 焼夷弾:都島区高倉町、鶴橋駅付近、天王寺駅付近
  • 大型爆弾:大阪陸軍造兵廠(京橋駅付近/一つは長柄橋直撃・柴島浄水場破壊)
  • 機銃掃射:都島区城北公園

常宣寺の慰霊碑に刻まれた犠牲者の方々は、

  • 愛媛県松山市をはじめ四国各地から、城北公園近くの繊維工場へ学徒動員(勤労動員)で来ていた女学生たち
  • 避難してきた付近の住民たち

がほとんどです。

以下、碑文を引用します。

昭和十六年十二月八日(一九四一年)未明日本国政府はあのいまわしい恐怖と破壊に充ちた無謀な太平洋戦争を引き起こし数百万人いや数千万人の善良な人民の生命を奪い去ったのである。

そして昭和二十年八月六日(一九四五年)に人類がもっとも恐れた核爆弾が広島に投下され一瞬にして生きる物を全て焼きつくした。二日後長崎に投下、長かった第二次世界大戦に終りを告げたのである。我々に残されたのは、赤肌な瓦礫の山、飢えと寒さ、住む家もない焼け野原、おびただしい数と量の血と死、と涙の爪跡をもたらしただけのいかに無意味な戦争であったかを、目撃者である我々が語 伝えるために。そして、永久平和の為に……。第二次大戦全般と第3回大阪大空襲による犠牲者を鎮魂する慰霊碑に添えられた碑文

当初、たくさんの遺体が常宣寺へ運ばれましたが収容しきれず、淀川堤防へ移され、油をかけて火葬されました。

常宣寺の近く、城北公園の淀川堤防側には、犠牲者を慰霊した千人塚があります。

千人塚に並んで平和地蔵尊(爆撃犠牲者之精霊)もあります。

日本国政府総務省のホームページには「一般戦災死没者の追悼|城北公園千人塚慰霊法要」の様子が公開されています。

なお、大阪空襲は兵庫県も巻き添えにしているため、北大阪空襲と呼ばれることもあります。

アクセス

浄土真宗本願寺派指月山常宣寺の住所は大阪府大阪市旭区生江3丁目27−18。地図は下のカードをご覧ください。

関連情報

公式サイト…大阪 指月山 常宣寺|浄土真宗本願寺派。寺院紹介、年間行事、由緒、浄土真宗の教え、仏事、お知らせなど。ギャラリーで仏像、梵鐘、境内、内観、外観を見られます。

再訪

2023年3月7日に再訪しました。

境内でお花を撮った写真をまとめてありますので、あわせてご覧ください。

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