仏教の宗旨の一つ。平安時代の初め、唐から帰国した最澄が伝え、比叡山に延暦寺を開いて教えを広めました。
基本情報
天台宗とは中国由来の日本密教の1つ。
特徴
中国天台宗
中国仏教のなかで代表的な一宗。
法華経を根本経典として天台大師の智顗が開創しました。
五時八教の教判を立てて、とくに一心三観の実践を説きます。
智顗の著書3点、法華玄義・法華文句・摩訶止観(三大部)を教義大成書として重視。
日本天台宗
唐代の天台宗僧侶である荊渓湛然(妙楽大師)の弟子、道遽と行満が、9世紀初頭、日本の僧侶であった最澄(伝教大師)に伝法。
9世紀をとおして、天台密教(台密)として教学的に発展しましたが、同時に密教化も深化し、以後の普及は限定的でした。
歴史
インド
天台宗のルーツは古く、インドの僧侶だったナーガールジュナ(龍樹)が形成。
中国
中国北斉時代の慧文・南岳・慧思たちをとおして智顗に伝えられました。
智顗が天台宗の大成者(開祖)で、天台山に天台宗の基盤ができてから、涅槃宗を吸収し天台宗を確立しました。
智顗のあと、智威→恵威→玄朗→湛然と継承され、湛然の時点で三大部の注釈が書かれ、衰頽してきたた宗勢が復活。
そのあと、845年の仏教弾圧(会昌の破仏)や、唐末五代の戦乱のなか衰微していきました。
宋代以降、趙宋天台として復興し、山家山外の論争や明末の智旭などにおいて注目されましたが、衰えは止まらず。
日本
荊渓湛然(妙楽大師)の弟子、道遽と行満が、9世紀初頭に日本僧侶の最澄に伝法。
最澄は比叡山に開創し、円教・禅・円戒・密教の4宗合一の宗風を形成しました。
確立と密教化
最澄の没後、円頓戒壇が設立され、天台宗が確立していきます。
最澄の弟子だった円仁や円珍らが中国留学(入唐)し、天台密教(台密)として教学的に大きく発展させました。
9世紀後半、安然の代に強く密教化しました。
天台宗は、最澄の弟子の義真(781~833)を 第1世天台座主として以降、天台座主が治めてきました。
山門と寺門の対立
しかし、円仁・円珍の法系間に確執が生じ、座主選出の問題から分裂。
円珍の門徒らは山を下って、園城寺(三井寺/滋賀県大津市園城寺町)を根拠地としました。天台寺門宗の成立です。
この対立から、園城寺側を寺門といい、比叡山側を山門というようになりました。
4宗合一の瓦解
山門の展開と分派
山門では良源の代に、教学面で本来の円教に帰ります。
そして、多数の弟子を輩出して宗勢が上がりました。
さらに、良源の弟子の源信は、浄土思想を鼓吹して、この法系から恵心流が勃興。
同じく良源の弟子の覚運がもつ法系から檀那流が勃興。
恵心流と檀那流をあわせて恵檀二流いい、これをもとに、台密の系統は十三流の分派に広がりました。
浄土思想の鼓吹
浄土思想の鼓吹から、院政期に良忍が融通念仏宗を形成。
鎌倉時代には、源空(法然)が浄土宗、その弟子の親鸞が浄土真宗を形成。
禅宗の勃興
円教と円戒の展開
円教からは日蓮の日蓮宗、円戒からは戒称一致を説く真盛の真盛派が発生。
中近世の天台宗
新しい宗派を生みつづけた天台宗では、平安時代末期から伝尊ぶ姿勢(いわゆるロ伝法門)を生みました。
他方で、教学的には衰退に向かいました。
また、僧兵権力が比叡山を支配して、政権争奪の走拘となったことも衰微に追い打ちをかけました。
とくに、織田信長の焼打ちにより一山は焼土に。
江戸時代、東叡山や日光山の開創により関東進出が順当にすすんで、ようやく旧態の隆盛が復活。
また、江戸幕府の学問奨励により教学も復興しました。
現在は、
- 天台宗(比叡山延暦寺)
- 天台寺門宗(園城寺)
- 天台真盛宗(西教寺)
などが流れをくんでいます。
関連情報
- 天台宗…大阪市内にある天台宗寺院の一覧。
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