意味
新義派とは、真言宗各宗派を位置づける特徴の1つで、加持身説に依拠。
古義派の対語です。
宗祖は空海、派祖は覚鑁。
加持身説法の教義に立つ流派で、覚の弟子の宗義が確立し、のちに高野山でこの称号を使いました。
旧来の宗義を遵奉しますが、新義派意外の宗派を古義の名称で一括してしまい、新旧に二分した誤解が生じました。
新義派の独立過程
覚鑁は、鳥羽上皇の信任を受けて、1134年に金剛峯寺と大伝法院の両座主に就任。
これに金剛峯寺衆徒(寺方)が反対し、大伝法院(院方)との軋轢に展開。
1140年には寺方が大挙して大伝法院と密厳院(覚鑁住所)を破壊したので、覚鑁は根来寺へ逃れ、ついに高野山に戻りませんでした。
1145年、大伝法院主の神覚が院宣で高野山へ帰り、20年間無事でした。
院方が派祖の大師号宣下奏請に端を発して、1168年に伝法院修正会の裳切騒動が発生。これも官裁で一時平穏を保ちました。
しかし、1175年に争いを生じて院方の堂舎大半を失ないました。
1242年、また伝法院が襲われ、翌1243年に反撃し、1248年、両徒は合戦して対立抗争しました。
1270年ころ、頼瑜が新義の教相を大成して大伝法院を復興。
しかし、1286年、また争いをしたため、頼瑜は高野山を離れる決心をして根来へ去り、翌1287年、大伝法院と密厳院を移して高野山と断絶。
ここに、分派独立を完了しました。
新義派の根絶と智山派・豊山派の成立
新義派の根絶
独立後、新義派は教相研究と寺院経営に努め、室町時代末期に一大法城を建設。
根来塗などを生産し、僧兵の行人は学侶に対立し、常住方は客方と争っていましたが、 1585年、とうとう豊臣秀吉に根絶されました。
智山派・豊山派の成立
専誉・玄有は高野に逃れましたが、玄有は醍醐でも拒まれました。
玄有は、京都北野の地で法を説いて、徳川家康の保護で東山豊国寺に寺域を与えられて智積院を建立。智山派の誕生です。
専誉は和泉国分寺にいましたが、のちに大和長谷寺に迎えられて豊山派の根拠地としました。
チェック 国分寺
こうして智山派・豊山派に分かれた新義派は、 教相面で区別なく、江戸時代の学問奨励で教学・余乗の研鑽に終始。
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