大阪の河川や橋梁をとりあげたギャラリーです。
今回は淀川大堰管理橋と淀川橋梁群。
このあたりで暮らすようになってから撮りためていた写真たちです。
淀川区沿岸地を歩くと、大阪市北区の長柄地域と都島区の毛馬地域で、国土交通省の施設をまとまって見ることができます。
一枚一枚、キリトリセカイで見ると寂れた感を隠せませんが、人類が川に手こずり、川の流れを調整しようとした痕跡のように見えてきます。
淀川が大阪市史のなかで大きな存在だったと想像します。
大阪市では昔から上流からどのように水を引くかが課題となってきました。そのため、大阪市には淀川氾濫に対応する事業を積極的に行なってきました。
淀川大堰管理橋(よどがわおおぜきかんりきょう)
橋といえるか微妙ですが、国土交通省近畿地方整備局と独立行政法人水資源機構が共同管理する堰(せき)です。
淀川大堰は都島区毛馬町4丁目(南側)と東淀川区柴島2丁目(北側)にまたがっています。
近隣住民としてはこの堰を渡れたり、飲食店があったりするともう少し便利になると思いますが、ダダをこねるとキリがありませんね…。
写真は北向き。
手前2つが大川、左右に流れるのが淀川。
この辺は大川と淀川の分岐点あたりで、鴨がたくさんいます。
次の写真のクレーンの根元あたりに重なった部分が大川と淀川の分岐点です。右は京都府・滋賀県方面。
この工事中の写真は淀川の護岸工事です。
都島区毛馬町から東淀川区柴島方面へ撮しました。2022年3月2日に撮影。
反対方向を向くと、都島区1番の有名スポット「毛馬閘門」(毛馬こうもん)があります。
次の写真は、国土交通省近畿地方整備局淀川河川事務所毛馬出張所を南側の蕪村公園から写したものです。
手前を流れる川は大川。淀川との分岐点(合流点)は毛馬出張所の向こう側(北側)です。
同じ毛馬橋から違うアングルで。
都島区由来記
毛馬桜之宮公園に石碑「都島区由来記」が立っています。
都島区と北区の間には大川が流れていて、この大川は旧淀川ということもあり、都島区は河川との繋がりが深い区域です。
以下に引用します。
母なる川である淀川に生成した多数の島や州によって都島の大地は創造された。平安朝のころから民家や寺院などもみられたようであるな、都島の 各地に集落が形成されるようになったのは近世都島の京橋口から発する京街道が開発され、また淀川京大阪を結ぶ政治的・経済的大動脈となってからのことである。こうして近世を迎えて明治二十二年大阪市制が施行されその後の市域の拡張)分増区を経て昭和十八年四月一日都島区の誕生をみて今日に至っている毛馬桜之宮公園内石碑「都島区由来記」
国道176号線(新十三大橋)
阪急中津駅と阪急十三駅の間にある十三大橋から、国道176号線(新十三大橋)を臨んだ写真です。
左が梅田方面、右が十三方面。外からみると国道に見えず、トンネルというか筒というか…。
淀川橋梁(阪神本線)
これは阪神電鉄本線の淀川橋梁です。
阪神本線の千船駅・姫島駅間に位置します。
2022年3月12日、阪急電鉄2箇所、大阪メトロ御堂筋線、JR京都線を越えて阪神本線まで鉄オタしてきました。
寺オタとしての収穫は28か寺。今年の累積は180か寺。残り約1000か寺です。自転車が途中で壊れないか心配です。
上の写真を写した場所の千船大橋は、大阪市西淀川区大和田4丁目・大阪市西淀川区佃3丁目に設置されています。
阪神高速11号池田線・JR東海道本線下淀川橋梁
淀川大橋から見た阪神高速11号池田線・JR東海道本線下淀川橋梁です。
淀川の全幅を写せるので爽快です。
東へ向いて写しました。
左が北側で西淀川区姫里、右が南側で福島区海老江。右手に梅田の再開発地域が見えます。
新淀川橋梁(阪急電鉄神戸本線・宝塚本線・京都本線)
これは阪急電鉄の新淀川橋梁です。
神戸線・宝塚線・京都線の3線が設置されていて、各上下線の合計6線が走っています。
写真向かって左側が十三駅、右側が中津駅・大阪梅田駅です。
ちなみに、撮影場所の十三大橋はこんな具合です。1枚目はフェイントです。
淀川橋梁(阪急電鉄千里線・大阪メトロ堺筋線)
淀川河川公園長柄河畔地区の隣接北側には、似た名前の淀川河川公園長柄地区があります。
やはり秋に行きたいところですが、あいにく手持ちの写真はこれくらいです。
淀川橋梁(阪急千里線)です。
左が北側で柴島駅へ、右が南側で天神橋筋六丁目駅へ。
長柄橋(北区天神橋8丁目)にて柴島(東淀川区)から長柄・毛馬方面を望んでいます。
上の写真は2022年3月2日に撮影。
淀川橋梁(阪急千里線)。この2枚は2020年3月17日に撮影。
淀川橋梁(JR京都線)
新大阪駅と大阪駅をむすぶJR京都線の淀川橋梁です。
手前が大阪駅側(北区)、あちらが新大阪駅側(淀川区)。
淀川橋梁(JRおおさか東線)
淀川河川公園赤川地区に来ると、JRの鉄橋があります。
かなりオレンジ色に錆びていてレトロです。
淀川に架かるJRおおさか東線の鉄道橋。城北公園通駅とJR淡路駅の間にあります。
大阪市都島区・旭区・東淀川区に被っています。
赤川鉄橋と呼ばれ、旧片町線貨物支線(城東貨物線)として活躍していました。
毛馬洗堰と毛馬閘門(けまあらいぜき・けまこうもん)
毛馬閘門は淀川大堰管理橋の近くにあります。
これが現在稼働中の閘門(水門)。
19世紀末まで、淀川は下流部に大川・中津川・神崎川の3河川があり、これらがしばしば氾濫していました。
1894年、内務省大阪土木監督署長の沖野忠雄が「淀川高水防御工事計画」を内務大臣に提出しました。内務省で大阪は第4区と称されていました。
工事計画の予算案は1896年3月に貴族院で成立します。翌月の4月に「河川法」(日本法令索引)が制定され、日本帝国ではじめて本格的な治水工事が始まりました。これが淀川改良工事(淀川改修工事)です。竣工は1909年。
オランダ土木技師のヨハネス・デ・レーケの工法をもとに、内務省土木技師の沖野忠雄を中心に改良工事がすすみました。
1896年に淀川改良工事(淀川改修工事)が着工されました。旧淀川(大川)への分流施設として毛馬洗堰がつくられました。
- 上流:瀬田川に南郷洗堰を設置し、琵琶湖水位の安定を企図。
- 中流:屈曲や川幅を修正。下流の都島区毛馬町には洗堰(大堰)を設置して通航可能な閘門を設置。毛馬からほぼ直線に大阪湾へ淀川放水路を開削し、旧流路との水量を洗堰で調節(淀川放水路は現在「新淀川」)
長らく毛馬洗堰は大川への水量をコントロールしてきましたが、1974年に新しい毛馬閘門(水門)が完成すると、役割を終えました。
毛馬洗堰には10門の水通しがありました。このうち3門がいまでも残されています。
1896年の淀川改修工事によって淀川は付け替えられました。
これによって、現在の新淀川と大阪市内へ流れる旧淀川(大川)のあいだに水位差が生じました。この水位差をコントロールして、船を安全に航行させるための施設として毛馬洗堰がつくられたわけです。
それ以降、1974年に現行の毛馬閘門がつくられ、毛馬洗堰が廃止になりました。
毛馬閘門は大阪市都島区毛馬町にあります。
次に紹介する、隣接の淀川河川公園長柄河畔地区は大阪市北区長柄東になります。毛馬洗堰はそちらにあります。
淀川河川公園長柄河畔地区(大阪市北区)
毛馬閘門の近く、長柄河畔地区にレトロな治水関係施設があります。
冒頭で紹介した阪急電車の鉄橋がある辺りは淀川河川公園長柄地区といいますが、隣接したここ、南地区は淀川河川公園長柄河畔地区といいます。
長柄地区はともかく、長柄河畔地区はふだん閑散としていますが、秋になると紅葉が赤レンガと重なって風景が一変します。この辺は人通りが少ないので、散歩にもってこい。
旧毛馬第一閘門
ブルーの水門は旧毛馬第一閘門。
上の写真は眼鏡橋です。
まとめ:大阪の河川に抱く複雑な思い
まだ写真が足りません。
いずれ大阪メトロ御堂筋線の写真を写しに行ったりして補充していきます。
1960年代の日本は欧米諸国を目標にしてキャッチアップ型経済発展を遂げましたが、公害も目標にしてしまいました。
淀川の汚染もその一つで、20世紀をとおして深刻な水質汚染が長らくつづきました。「大阪の水はまずい」という言葉が、つい最近まで言われていました。
他方で淀川は氾濫すると地域社会を飲みこむ荒れようでした。
たとえば、大阪市都島区の母恩寺のように、大型の仏教寺院と地域社会を丸のみして減退させた話が有名です。
また、大阪の河川は宮本輝の小説にあるように、工業化と悲哀の裏腹を象徴する人間模様をつくりだしてきました。
大阪の河川に抱く複雑な思い。
水は味方なのでしょうか、敵方なのでしょうか。
これからも、水質汚染、氾濫、工業化と悲哀などの観点から大阪の河川を追いかけていきます。
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