仏寺めぐり大阪をスタートして15ヶ月。
この記事では、久しぶりに知的好奇心が動かされた、摂津国の国分寺の位置づけを考えています。
国分寺・国分尼寺とは
国分寺とは、聖武天皇が741年に建設を命令した国別仏寺のことです。
日本史学習では「国分寺建立の詔」として有名ですが、厳密には二つの種類がありました。
- 男性僧侶で構成される国分僧寺(金光明四天王護国之寺)
- 女性僧侶で構成される国分尼寺(法華滅罪之寺)
741年以降、日本朝廷(平城朝)支配圏で国分寺と国分尼寺があちらこちらに建てられていきました。
朝廷・天皇の命令で建てられたので、官寺という種類になります。今では国立のイメージです。
平安時代中期から国分寺の多くが廃絶したり荒廃したりしたといわれます。
仏寺めぐり大阪をはじめてから、近所に国分寺というお寺が「現存」するを知り、しばらくしてから、大阪市が別の場所を国分寺「跡地」に指定したことも知りました。
大阪市(≒摂津国)の国分寺・国分尼寺
大阪市のケース
少し調べると、現住所の地名も似ていることがわかり、好奇心をそそられます。
- 大阪市内に「現存」する国分寺…大阪市北区国分寺1-6-18(国分寺公園前)
- 大阪市が「跡地」に指定した国分寺…大阪市天王寺区国分町14(国分公園内)
どちらの場所も、741年「国分寺建立の詔」の時点で摂津国の範囲内。
ちなみに、大阪シティバスで前者が「長柄国分寺」停留所ちかく、後者が「国分町」停留所ちかく。
大阪市の主張をみましょう。
聖武天皇は、天平13年(741)奈良東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺とし、全国に国分寺・国分尼寺をおいた。摂津国分寺については、ほとんど知られることがなかったが、この付近から奈良時代の蓮華文や唐草文軒瓦が出土し、国分寺跡と推定されている。https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009761.html
この大阪市説で気になる点が出土品。
奈良時代の蓮華文軒瓦や唐草文軒瓦が出土したから国分寺跡地だという点です。
蓮華や唐草の文様を採り入れた軒瓦という物的証拠。
それらの瓦が決定的な証拠に思えるかもしれませんが、少し冷静に考えましょう。
奈良時代のなかば過ぎごろ、国分寺の造営工事が行われました。国ごとに僧寺と尼寺が1か寺ずつ建てられたのですが、国分寺の建立を手助けした各地の豪族たちも自分の寺を新たに建てたり、すでに建てた寺を修理したりします。それらの寺々の瓦を見ますと、大和、とくに平城宮で使われた瓦と同じような文様をもつものが目立ちます。国分寺の造営工事の際に大和からいろいろな面で技術援助が行われた様子を知ることができます。https://www.ishino.jp/museum/
このように、瓦会社のサイトには、各地の国分僧寺・国分尼寺が大和からの技術援助を受けていたことが記されています。
交野市のケース
素弁八葉蓮華文軒丸瓦(写真左)と忍冬唐草文軒丸瓦(写真右)
素弁八葉蓮華文軒丸瓦は、郡津1丁目の明遍寺付近から水道工事の際に採取されました。市内で一番古い瓦で、飛鳥時代のものです。
奈良の豊浦寺から出土した瓦に似たもので、朝鮮半島の高句麗に系譜を持つのではと考えられています。
忍冬唐草文軒丸瓦は、同じく郡津1丁目の郡津神社から出土したもので、奈良時代に作られたものです。
忍冬唐草文軒丸瓦と同じ文様をもつ瓦は日本では見つかっておらず、朝鮮半島の新羅に系譜を持つのではと考えられています。http://murata35.chicappa.jp/rekishitanbo/index09.html
この引用からは、明遍寺付近から出土した蓮華文軒瓦が飛鳥時代のものだ、郡津神社から出土した唐草文軒瓦が奈良時代だとわかります。
大阪市の説では、唐草文だけでなく蓮華文も奈良時代とみなしているので、国分寺跡から出土した軒瓦を簡単に奈良時代と特定します。
ところが、交野市の説では蓮華文に飛鳥時代の可能性があるわけです。
この捉え方にもとづけば、国分寺跡から出土した軒瓦が飛鳥時代の可能生もあります。
古書籍や古地図から探る
長柄国分寺派(北区説)
この説によりますと、もともと北区長柄にあった長柄寺が詔をもって国分寺となりました。
この説をふまえると、詔の数十年前、飛鳥時代に建造された長柄寺が国分寺となり、淀川を挟んだ法華寺を国分尼寺と想定できます。国分寺と国分尼寺が近い点から、この説に妥当性があります。
大阪市派(天王寺区説)
- 『大阪けんぶつ』…行基が開基、本尊が閻浮檀金十一面観世音。寺内に聖武天皇の宝塔があるので、後人の建造だろう。(矢嶋嘉平次『大阪けんぶつ』矢島誠進堂、1895年、28・29頁)
- 『浪花の志保里』…建立が聖武天皇、本尊が観世音菩薩、中興が沙門光厳和尚。(太田源太郎『浪花の志保里』本林丁子堂、1895年、37頁)
別のとらえ方(別派)
- 『摂津名所図会』…東生郡(現・天王寺区)。「西成郡南長柄に同号あり。どちらかが国分尼寺だろう」。(東生郡「国分寺」の項)
このとらえ方ですと、天王寺区の国分寺が国分尼寺で、北区の国分寺が国分寺である可能性があります。
摂津国の国分寺・国分尼寺について
さて、これまで摂津国に含まれる北区と天王寺区の国分寺、どちらが本物という探りを入れてきました。
論点は次のようにまとめられます。
- 文献では、地理学的に北区の国分寺に分があります。(国分寺と国分尼寺の距離とか)
- 出土瓦では、出土した天王寺区に分があります。
でも、出土瓦に飛鳥時代の可能性が残されていますから、天王寺区説も、100%とは言い切れない点があります。
現状
1980年代頃まで天王寺区にも国分寺がありましたが、現在は廃寺した模様。
これに対して北区の国分寺は真言宗の寺院として今も現存しています。
とにかく存立してさえいれば、自称でも他称でも気にせず、お寺を味わうことができます。
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