概要
国分寺とは、741年に聖武天皇が66か国に建立を命じた仏教寺院。
このとき、壱岐・対馬・多禰の3か所にも建立を命じ、これらを島分寺といい、ふつう、国分寺は69か所あったといわれます。

日本史の授業で出てくる「国分寺建立の詔」です。
僧寺と尼寺
僧寺の正式名称を金光明四天王護国之寺といい、略して国分僧寺や国分寺。
総国分寺は東大寺(奈良県奈良市)だったといわれます。
尼寺は法華滅罪之寺といい、略して国分尼寺や法華寺。
総国分尼寺は法華寺(奈良県ならんし)。
計画
737年、天然痘が大流行して光明皇后の兄4人が同年に没しました。ほかの貴人や大官の薨去もつづきました。
かねてから地方に政教一致を計画していた聖武天皇は、鎮護国家の三部経である金光明経・仁王経・法華経をもとに、国家安穏・五穀豊熟を祈願して、国分寺建立の大業を起こしました。
大極殿や国分寺で天下泰平や五穀豊穣を祈願する修法には、吉祥悔過法が使われました。
チェック 吉祥天
準備
- 七重塔を建立
- 金光明経・法華経を10部ずつ書写
- 水田を施入
- 僧寺には 20僧、尼寺には10尼を配置
実施と効果
地方経済力が衰えていく経緯に重なり、各地での建立が大きく遅れました。
770年頃にはだいたい完成したようですが、平安時代中期には、すでに鎮護国家の役割をやめました。
破損後に再興されることは少なく、室町時代には、ほとんど遺跡のみが残る状態となりました。
現状
国分寺の位置は国府に近かったようです。
20世紀になり、遺跡や古瓦を発掘するところが増えました。
この関係で、地名を残すだけでなく、史蹟指定も半数近くにおよんでいます。
ただし、地誌史料と発掘調査資料にズレが出て、摂津国の国分寺・国分尼寺のように位置の特定が難しいケースもあります。
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