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融通念仏宗大念仏寺(大阪市平野区)

平野区
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融通念仏宗大念仏寺(大阪市平野区)

大念仏寺だいねんぶつじは融通念仏宗の総本山。

開祖良忍の開基で、たびたび炎上しましたが、江戸時代に幕府の保護を受けて栄えました。

本堂は大阪府下最大の木造建築物。2003年に国の登録有形文化財に登録さました。

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ギャラリー

山門・南門

2023年5月3日、大源山大念仏寺山門(大阪市平野区平野上町1-7-26)にて撮影。

2023年5月3日、大源山大念仏寺山門(大阪市平野区平野上町1-7-26)にて撮影。

2023年5月3日、大念仏寺山門の屋根瓦。大阪市平野区平野上町1-7-26にて撮影。

一枚だけ南門。

2023年5月3日、大念仏寺南門の屋根瓦。大阪市平野区平野上町1-7-26にて撮影。

写真奥は本堂です。

本堂

2023年5月3日、大念仏寺本堂(大阪市平野区平野上町1-7-26)にて撮影。

2023年5月3日、大念仏寺本堂(大阪市平野区平野上町1-7-26)にて撮影。

大念仏寺の院号「諸仏護念院」の札が掲示されています。

2023年5月3日、大念仏寺本堂(大阪市平野区平野上町1-7-26)にて撮影。

2023年5月3日、大念仏寺本堂(大阪市平野区平野上町1-7-26)にて撮影。

脇にはマニ車がありました。

マニ車。2023年5月3日、大念仏寺本堂(大阪市平野区平野上町1-7-26)にて撮影。

このマニ車はネパールからの返礼品。

大念仏寺は、おおさか十三仏霊場の一つ。

霊場会によるネパール教育支援のお礼として寄贈されたもので、霊場会に参加する寺院13か寺に設置されています。

この関係か、勤務先のお寺に大念仏寺のマッチ箱があります(^^)

融通念仏宗総本山大念佛寺のマッチ箱。

霊明殿

2023年5月3日、大念仏寺霊明殿(大阪市平野区平野上町1-7-26)にて撮影。

寺務所

2023年5月3日、大念仏寺寺務所(大阪市平野区平野上町1-7-26)にて撮影。

建物失念(;_;)

建物失念。ご存じの方、教えてください。2023年5月3日、大念仏寺(大阪市平野区平野上町1-7-26)にて撮影。

宝物館

2023年5月3日、大念仏寺宝物館(大阪市平野区平野上町1-7-26)にて撮影。

正面に観音菩薩が堂々とそびえています。

2023年5月3日、大念仏寺の観音菩薩。大阪市平野区平野上町1-7-26にて撮影。

セクシーさを追求して斜めから。

2023年5月3日、大念仏寺の観音菩薩。大阪市平野区平野上町1-7-26にて撮影。

宝物館には摩利支天の木版画像(融通念仏縁起)が安置されています。

経蔵

2023年5月3日、大念仏寺経蔵(大阪市平野区平野上町1-7-26)にて撮影。

2023年5月3日、大念仏寺経蔵(大阪市平野区平野上町1-7-26)にて撮影。

楽邦殿(納骨堂)

2023年5月3日、大念仏寺楽邦殿(納骨堂)。大阪市平野区平野上町1-7-26にて撮影。

鐘楼

2023年5月3日、大念仏寺鐘楼(大阪市平野区平野上町1-7-26)にて撮影。

自動で鐘楼が鳴っていてビックリ(^^)

文化財

  • 木造釈迦如来及十六羅漢立像…17軀、附24点(台座17基・光背6面・塔婆1基)。2023年に大阪市の有形文化財・美術工芸品(彫刻)に指定。

プレート日本史

大念佛寺南門(古河藩陣屋門)

平野濠都市遺跡の1つに数えられています。

この門は現在の平野小学校所在地にあった古河藩の陣屋門。

1874年の廃藩後に、平野小学校 の表門として1927年まで使用されていました。

小学校舎の新築拡張にともない、保存の要望が強く、1962年1月にここへ移築されました。

平野郷の藩政時代を示す唯一の遺構で、その門扉は樟の一枚板。

江戸時代の平野郷は、1694年を境に、前期は幕府領、後期は大名領地でした。

1713年、下総国古河藩主本多忠良に給与され、1869年の版籍奉還までの156年間、松平侯・土井侯と大名は代わりましたが、古河藩付所領であり続けました。

陣屋は土井侯の古河藩時代に設置され、平野郷をはじめ、摂津近在にある古河藩所領の行政事務を担当していました。

本堂

2003年に文化庁登録文化財指定。

1938年に竣工した総襷造り銅板葺き。

大阪府下最大の木造建築で、棟行(南北)39.1M、梁行(東西)49.8M。

堂内には、正面宮殿に本尊十一尊天得阿弥陀如来画像。

その両脇には、

  • 名仏師新納忠之介(岡倉天心の高弟)作の多聞天王
  • 左右の宮殿に宗祖聖應大師(良忍上人)、中祖法明上人の木像(八幡大士の極彩色の木造が立ち)

を安置。

また、左右余間には、

  • 再興大通上人の侍像(椅子に腰をかけ、両足を前に揃えた像)
  • 旧本堂(1667年に建立され1996年に焼失)の建立願主の舜空上人の木造

を安置。

外陣いっぱいに吊り下げられた大数珠は1903年に再製したもので、約千二百顆の棒材からできています。

一つ一つの珠に名と施主名、回向戒名が陰刻されています。

百万遍大数珠繰り法要に使用するそうです。

楽邦殿(納骨堂)

末寺檀信徒、一般信徒から納められた霊骨、胎内仏、水子地蔵尊を祀っています。

二階が奉安所・回向所で、一階は休憩所。1998年再建。

霊明殿

正門、回廊、奉安所、修法堂から構成。

創建は1156年第3世・明應上人のとき。

良忍上人の念仏勧進を助けて、自らも融通念仏に深く帰依した鳥羽上皇の霊牌と御真影を祀るために建てられました。

その後、第三十八世法覚上人は徳川家康を合祀するために、権現造りの社殿を再建。

それ以後ここを「権現さま」「お宮」と称しました。

家康は大坂冬の陣・夏の陣にさいし、第36世・道和上人に帰依して、治国の要を教わりました。

そして、国家安穏の祈祷を乞い、日課念仏を誓約しました。

さらに、両度の戦役で被災した大念仏寺を、天海僧正立ち会いのもとで、青銅五百貫文を弁済したり、庫裡を再建したり、念仏勧進の許可を与えたりして、融通念仏の普及に貢献しました。

今日まで修理を繰り返し、正門と回廊は江戸時代の遺構を残していますが、奉安所と修法堂は1892年ころに火災で焼失。

その後、北花田澤池正信氏と柄谷善弘氏の寄進により、1930年に旧形のまま建て替えられました。

2008年に大修復を施して、新たに後小松天皇を合祀。

後小松天皇は融通念仏勧進帳の序文(重要文化財)をしたためて、念仏を広めました。

聖應大師・良忍上人略伝

良忍上人は1072年に尾州知多郡富田荘(現愛知県東海市)の領主、藤原秦氏の家に生まれ、12歳で比叡山に登りはじめました。

大いに修行に努めて天台密教の学問を深めました。

23歳のとき、真の仏道を求めようと意を決して、山を下って洛北大原に移りました。

一日六万遍の念仏を唱え苦行を重ねて、法華経などあらゆる経典を読破書写し、来迎院を開創。

また、浄蓮華院等を復活建立しました。

上人は生来美声と音楽才能にめぐまれ、声明(仏教音楽)に励んで、当時伝えられていた諸流諸派を統一大成。

そのため、声明中興の祖といわれます。

1117年5月15日、正午三昧中に阿弥陀如来より選得往生の道・口称融通念の偈文を授かります。

この時をもって融通念仏宗の開宗と定められています。

上人は鳥羽上皇から厚い帰依を受け、上皇下の勧進帳と鏡鉦を奉持して、宮中をはじめ諸国を行脚し、融通念を広めました。

四天王寺に錫をとどめていたとき、聖徳太子の霊告を蒙り、1127年、摂津平野に根本道場として大念仏寺を創建。

1773年、後桃園天皇から「聖應大師」の大師号を授与。

経蔵

17世紀末、第46世・大通上人の創建。

堂(三間半四面)の中心に経箱を置いて、回転させる構造になっています。

これは転法輪(教えを説くこと)を意味し、経の功徳が広く行きわたることを願ったもの。

現在は「なにわ七幸」の霊場として良忍上人像を安置しています。

山門

門、扁額、棟札の三点が大阪市の有形文化財。

1706年、第46世・法主大通上人の建立。

棟行2間(3.6M)、梁行9尺(2.7M)。両脇に7尺(2.1M)の壁落ち屋根を付けています。

1901年、2003年に大修理。

「大源山」の扁額は、後西天皇の皇女で、京都宝鏡寺の本覚院宮徳厳尼の真筆。

大通上人はこの門を融通無碍門と命名して、人種、年齢、性別、職業の違いを越えて、お互いが一つ心で融け合い、喜びと感謝があふれる仏国土を築きあげるという融通念仏の功徳を称揚。

関連情報

  • 大念佛寺…公式サイト。お知らせ・法話、参拝案内、万部おねり、行事・法要、納骨・先祖供養、交通案内など。

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