大阪メトロ谷町線でお寺めぐり
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鵺塚(ぬえづか):大阪市都島区の史跡めぐり

史跡
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2022年2月25日、旭区と都島区を自転車めぐりしてきました。

先日までの風がやんで今日は寒さがマシに。

天気が良くてお昼前には少し暖かくなってきました。

先日、母恩寺に行きましたが、大阪市がセットで紹介している鵺塚には行ってなかったので、気になっていたのです。

行けば簡単、大阪メトロ谷町線都島駅前から南東側に寂れた商店街があり、その途中の路地を東へ曲がればOKです。

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鵺塚(ぬえづか):大阪市都島区の史跡めぐり

鵺塚(ぬえづか):大阪市都島区の史跡めぐり

鵺塚(ぬえづか):大阪市都島区の史跡めぐり

鵺塚(ぬえづか):鵺塚(大阪港紋章)。大阪市都島区の史跡めぐり

鵺塚は母恩寺から南東約500mのところにあり、かつて母恩寺の境内だったとのこと。

隆盛時の母恩寺の広さを痛感しました。

母恩寺へ行った記事はこちらをご覧ください。

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文献めぐり

母恩寺と鵺塚を文献めぐりしましょう。

鵺塚の記述と母恩寺のイラスト

一無軒道冶ほか『蘆分船:難波名所巻6』(だるまや出版、1924年、15・16丁)には、沢上江(かすがえ)という所に後白河法皇が母のために建てた母恩寺があり、その敷地内に鵺塚があると記載されています。母恩寺境内のイラストつき。

なお、「都島区内にある鵺(ぬえ)塚について知りたい | レファレンス協同データベース」では、『都島区史』『大阪春秋通巻94号』『東海道どうぶつ物語』などを参照して、鵺塚の由来についてコンパクトに説明しています。

母恩寺・鵺塚と沢上江町

沢上江は旧地名で、いまの都島北通や都島本通あたりにありました。

浄土宗寺院名鑑から母恩寺の所在や住職の記録を確認できます。

  • 島田良彦・中村周愍編『浄土宗寺院名鑑』浄土教報社、1902年、第六大教区天満小教区7頁…内田貞音尼が住職を務めていたことが記されています。当時の行政区分により所在地は「大阪市北区沢上江町」です。
  • 教学週報社編『浄土宗寺院名鑑』昭和13年版、401頁…母恩寺が天満組の第一部に属し、内田貞松尼が住職を務めていたことが記されています。当時は「大阪市北区沢上江町」です(同上)。

内田貞音と母恩寺

内田貞音(うちだていおん/1840年~1918年)は、1889年に母恩寺の住職となりました。

母恩寺の住職となり、荒廃した寺門の復興に尽力、同二三年同寺院を尼衆教場とし、監督・教授を務める。内田貞音 – 新纂浄土宗大辞典

1890年には母恩寺を尼衆教場としたそうです。

著書に、及川銀太郎編『貞音歌集綾錦抄』(母恩寺、1936年)。

関連情報

母恩寺と鵺塚は大阪市「歴史の散歩道」に指定されています。

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