特徴
古代から中国では、病気平癒の呪術や不老長生の道術などが盛んでした。
歴史
体系的な密教が形成される前、「雑密」といわれる密法がインドから中国へ伝わっていました。
3世紀前半
230年(三国時代)に複数の経典が訳出されました。
- 竺律炎訳「摩登伽経」
- 支謙訳「華積陀羅尼神呪経」
- 支謙訳「無量門微密持経」
- 支謙訳「八吉祥神呪経」
これらを先導に、呪術的な傾向を多くもつ大乗経典が翻訳されていきました。
これらの霊力に関する仕事は、密教が中国に定着する基盤になりました。
5世紀はじめ
勝れた翻訳者(訳経家・訳経僧)や偉大な呪術者が活躍。
8世紀はじめ:開元三大士の入唐と唐密の形成
この頃、中国密教は天子(歴代の中国皇帝)と結びついて確立していきました。
8世紀はじめ、インドの高僧だった善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空金剛(開元三大士)らが入唐しました。
3人の密教大師たちは、唐の皇室から支援をうけ、長安の大興善寺(現在の西安市)にて大量の密教経典を翻訳しました。
組織的な経典(大日経、金剛頂経など)がインドから中国へ移植されたのです。
やがて唐では密教が盛んになり、唐密が形成されました。
8世紀中頃:唐密の展開
不空の登場
8世紀中頃、不空の登場によって中国密教は最盛期を迎えます。
741年に、不空は師僧の金剛智から使命を受けて、スリランカ(獅子国)へ密法を学びに行きます。
普賢阿闍黎座のもとで金剛界と胎蔵界の2つの密法を灌頂。
中国へ帰ってから不空は密法11部・143巻を翻訳しました。
求法僧の急増
8世紀後半になると、朝鮮・日本、東南アジア各地から求法の僧が集いました。
日本からは9世紀はじめの最澄や空海の入唐が有名です。
9世紀中頃:仏教弾圧
優れた翻訳者(訳経家)や僧侶を輩出してきた中国の古代密教で試練が始まったのは、9世紀中頃、845年・846年のことです。
唐の天子だった武宗(会昌)が仏像を破壊したことから、仏教弾圧が始まります。
天子からの支持を失ったため、綿密な壇城の配置と繁復を必要とする儀軌教授の唐密伝承は断絶。
一方では、大悲、尊勝、準提、穢れなどの比較的簡明な独部密法だけが大衆に残りました。
他方、詳細な儀軌は禅宗、華厳宗などの出家衆のなかで隠密に伝承されました。
弾圧の影響を受けなかった唐密教法は、周辺地域に温存されました。
宋代以降:王朝密教の小復活
宋代に著しい隆盛はみられず、伝えられた密教はわずか。
宋代やその後の遼、金、西夏などの王朝密教は、少しばかり復活を遂げました。
法天は天息災や施護らとともに来宋し、仏法の大意を尋ねて揚称の旨を述べました。
明朝以降、さらに密教は下火になっていきました。
コメント お気軽に♬