人物
聖徳太子は用明天皇の第二皇子で、推古天皇の摂政を務めました。
広く儒学・仏教のほか暦学・天文・地理などを学び、留学生を隋に遣わして(遣隋使)、中国仏教をはじめとする文化の輸入に尽力。
厩戸皇子、豊聡耳命、上宮太子、聖王などと呼ばれます。
キャリア
冠位十二階と憲法十七条とを制定しました。
また、仏法を信仰して大乗仏教の精神を発揮。
具体的には三経(法華経・維摩経・勝鬘経)を自ら講義したり、四箇院(敬田院、施薬院、療病院、悲田院)を建立したりと、仏教による統治や事業を興しました。
建立した寺院には、四天王寺・法隆寺・広隆寺・法興寺などがあり、中国文化を日本へ調和させる文化の指導者として活躍しました。
622年(前年説あり)に磯長廟(叡福寺北古墳)に葬られています(大阪府南河内郡太子町太子)。
文化財
絵伝
平安時代・鎌倉時代には絵伝がたくさん作られました。
阿佐太子筆と伝える肖像画のほか、年齢別の彫刻などが信仰対象として各時代に製作されました。
聖徳太子の伝記を絵で表現したものに四天王寺絵堂の壁画があったといわれます。現存最古のものは、もと法隆寺絵殿の障子絵を屏風に仕立て直して御物となった1069年のものです。
これは秦致真筆で、縦1.8m、横2.7mの大幅で約60件の事蹟を配置しています。
それぞれの場面に色紙型を添えて説明してあります。
そららの説明は、およそ伝暦の説話によっていて、鎌倉時代に入るにおよんで太子信仰が盛行して絵伝が多く作られたわけです。
だいたい、この障子絵に準じたものが多いです。
絵巻形式では上宮寺蔵1巻その他があります。
御影
古く伝阿佐太子筆の唐本御影がありますが、二歳像に南無仏太子像(半裸体の嬰児像)、7歲像の童子形御影(聖霊会の本尊)、16歳像の孝養御影、45歳の勝鬘経御講御影など、水鏡御影・楊枝御影など各種の影像が製作されました。
聖徳太子伝暦(二巻伝)
2巻。
平氏撰とありますが、917年の蔵人頭藤原兼輔の撰が正確。
もっとも広く流布した伝記で、平安時代初期にすでに伝説化されていましたが、そのあと、ますます神格化されていきました。
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