聖徳宗中宮寺(奈良県生駒郡)
中宮寺は、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺北東にある聖徳宗の寺院。
聖徳太子が母后のために創建した尼寺です。
中宮寺は、四天王寺式伽藍配置だったと判明しており、法隆寺と中宮寺は僧寺と尼寺の関係にあったと考えられています。
本堂には国宝指定の菩薩半跏像(伝如意輪観音)があります。
- 宗旨:聖徳宗
- 山号:法興山
- 寺号:中宮寺(鵤尼寺)
- よみ:ちゅうぐうじ
- 本尊:菩薩半跏像(伝如意輪観音/国宝)
- 所在地:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1丁目1−2
- 参拝日:2023年6月7日
ギャラリー
歴史
聖徳太子の創建です。のち門跡尼寺に。
古代奈良にあった3つの尼寺(大和三門跡尼寺)の一つです(ほかに法華寺と円照寺)。
創建
聖徳太子の母だった穴穂部間人皇后の希望により、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に中宮寺を創建。
当初の跡地は、現在の東方500メートル程の所に残っています。
1963年の発掘調査により、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置の伽藍であったことが確認されました。
法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として初めから計画されていたと思われます。
平安時代
平安時代に寺運が衰退し、宝物の主なものは法隆寺に移動。
わずかに草堂一字を残して菩薩半跏像だけがいる状態でした。
1101年から1110年の間に塔の修理がありました。
また1164年、再び塔が修理され、仏体物体12点が彩色されなおました。
鎌倉時代
1277年に上棟され、1281年に供養が行なわれました。
担った人物は河内西琳寺日浄上人・西大寺叡尊らで、発願は信如比丘尼。
彼ら彼女らは中宮寺中興の祖です。
その信如比丘尼が、1274年、天寿国曼荼羅繡帳を法隆寺宝蔵内に発見。翌年に補修を終えました。
信如尼以来皇室女院が住持し、門跡尼寺となりました。
といっても、往時の盛大さは戻らず。
室町時代
室町時代のことは不明すぎますが、跡地から古瓦が出土しているので、法燈は続いていたようです。
たびたび火災に遭い、法隆寺東院の東横へ避難。
近世
1602年、後伏見天皇八世の皇孫・尊智女王が住職となってから、厄門跡斑鳩御所として寺観が整のっていき、今の伽藍に継がれます。
現在のように、法隆寺夢殿の東側へ移転した時期は、江戸時代初期と推定されています。
近代
1889年元旦、改めて中宮寺門跡と号するようになりました。
見どころ
1963年、中宮寺故地の伽藍跡を発掘調査。
かつては四天王寺式配置の伽藍だったことが明らかになりました。
この発掘調査は本堂の落慶へと展開しました。
本堂
1968年に落慶。
以前の本堂は西向きでしたが、 上代寺院の規則にもどって南面。
木造菩薩半跏像
中宮寺の本尊・菩薩半跏像は、飛鳥時代に作られた半跏坐の菩薩像です。
寺伝によると如意輪観音ですが、弥勒菩薩として作られたとの説もあります。
飛鳥時代の作品で、国宝。
この本尊の向かって右に薬師如来坐像、向かって左に阿閦如来坐像、手前に雨宝童子を安置しています。
中宮寺は寺伝をふまえ如意輪観音像としていますが、弥勒菩薩像とするのが妥当でしょう。
飛鳥時代に如意輪観音は不在でした。
ヘアスタイルが可愛らしく、双髻弥勒ともいわれます。
双髻とは髻が二つある髪型で、奈良時代の文化財によく見られます。
表情はアルカイックスマイル(古典的微笑)の代表例で、姿勢は半跏思惟像の典型例です。
チェック 微笑む仏像の正体と誕生物語
チェック 半跏思惟像
天寿国曼荼羅繡帳
国宝。飛鳥時代。
622年、聖徳太子の歿後王妃・橘大郎女が、太子の往生した理想浄土・天寿国(無量寿仏国?)の様子を宮中の釆女たちに刺繍させたもの。
- 画者…東漢末賢、高麗加世溢、漢奴加已利
- 監督…椋部泰久麻
鎌倉時代(1274年か1279年)、中興・信如比丘尼が法隆寺綱封蔵から発見し、また、模本の繍帳も製作。
現在の繡帳は、飛鳥時代の原本と鎌倉時代の模本とを貼り合わせた一帳。
図中には亀甲型が4個残り、 一個に4字ずつ「斯帰斯麻」「部間人公」「于時多至」「皇前日啓」の文字を表現。「上宮聖徳法王帝説』 に伝える銘文に合致しています。
その他
- 紙製文殊菩薩像
- 瑜伽師地論:1281年に信如が加点
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