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浄土宗母恩寺(大阪市都島区)

都島区
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大阪市内の仏教寺院を自転車遍路。山門・境内・お花たちの長閑な風景を紹介しています。
最近の関心事は3つ。

  1. 仏像を写す
  2. 毎日の勤行に真言宗のお経を読む
  3. 終活に仏寺めぐりを考える
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浄土宗母恩寺(大阪市都島区)

  • 宗旨:浄土宗
  • 宗派:浄土宗
  • 山号:法皇山
  • 院号:
  • 寺号:母恩寺
  • よみ:ぼおんじ
  • 本尊:阿弥陀如来
  • 所在地:大阪市都島区都島本通1-20-22
  • 創建年:1168年

2022年1月21日に撮影。

浄土宗母恩寺(大阪市都島区)

浄土宗母恩寺(大阪市都島区)

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プレート日本史:母恩寺

1168年に、後白河法皇が、高野山に参詣される途中、とくにこのあたりの景色を好まれ、ここに生母・待賢門院の菩提のためにこの寺を創建されました。

寺の名前には「母后報恩」の意味がこめられています。

往時は12の坊舎を有する大伽藍で、代々住職は皇女が勤める尼寺でした。淀川の洪水や兵乱でしだいに勢いが衰え、一時は荒れ寺となっていたこともありました。

寺宝として後白河法皇と待賢門院の画像のほか、1719年の略縁起などがあります。都島区のおもな史跡・旧跡

1168年、後白河法皇が母恩寺を建てました。創建の目的は、生母(待賢門院)の菩提(ぼだい)のため、つまり生母の成仏や死後の冥福を祈るためでした。

この目的から母恩寺の名前は母后報恩の意味をふくんでいます。

賑やかだったとき寺内には12の坊舎がありました。住職は皇女が勤めた尼寺でした。

淀川の洪水兵乱で母恩寺の勢いが衰退したとあります。

淀川は洪水が多いので、断続的に勢いがなくなったように読めます。

近代の淀川洪水でこの地域が浸水したのは1917年と1953年。近世以前にさかのぼればもう少し洪水被害が増えそうです。

物理的に寺院が縮小した出来事には、廃仏毀釈や大阪大空襲も挙げられます。

兵乱は石山合戦か、明治維新か…。

なお、母恩寺は近所の鵺塚(ぬえ塚)とともに大阪市の歴史の散歩道にあげられています。

文献めぐり

母恩寺と鵺塚を文献めぐりしましょう。

鵺塚の記述と母恩寺のイラスト

一無軒道冶ほか『蘆分船:難波名所巻6』(だるまや出版、1924年、15・16丁)には、沢上江(かすがえ)という所に後白河法皇が母のために建てた母恩寺があり、その敷地内に鵺塚があると記載されています。母恩寺境内のイラストつき。

なお、「都島区内にある鵺(ぬえ)塚について知りたい | レファレンス協同データベース」では、『都島区史』『大阪春秋通巻94号』『東海道どうぶつ物語』などを参照して、鵺塚の由来についてコンパクトに説明しています。

母恩寺・鵺塚と沢上江町

なお、沢上江は旧地名で、いまの都島北通や都島本通あたりにありました。

浄土宗寺院名鑑から母恩寺の所在や住職の記録を確認できます。

  • 島田良彦・中村周愍編『浄土宗寺院名鑑』浄土教報社、1902年、第六大教区天満小教区7頁…内田貞音尼が住職を務めていたことが記されています。当時の行政区分により所在地は「大阪市北区沢上江町」です。
  • 教学週報社編『浄土宗寺院名鑑』昭和13年版、401頁…母恩寺が天満組の第一部に属し、内田貞松尼が住職を務めていたことが記されています。当時は「大阪市北区沢上江町」です(同上)。

内田貞音と母恩寺

内田貞音(うちだていおん/1840年~1918年)は、1889年に母恩寺の住職となりました。

母恩寺の住職となり、荒廃した寺門の復興に尽力、同二三年同寺院を尼衆教場とし、監督・教授を務める。内田貞音 – 新纂浄土宗大辞典

1890年には母恩寺を尼衆教場としたそうです。

著書に、及川銀太郎編『貞音歌集綾錦抄』(母恩寺、1936年)。

関連情報

母恩寺と鵺塚は大阪市「歴史の散歩道」に指定されています。

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