大阪市内の仏教寺院を自転車遍路。山門・境内・お花たちの長閑な風景を紹介しています。
最近の関心事は3つ。
日蓮宗寂光寺(大阪市東淀川区)
- 宗旨:日蓮宗
- 宗派:日蓮宗
- 山号:宝林山(寶林山)
- 院号:普賢院
- 寺号:寂光寺(尼寺)、別名「江口君堂」
- よみ:じょこうじ
- 本尊:
- 所在地:大阪市東淀川区南江口3-13-23
2022年2月28日に撮影。
境内
寂光寺(江口の里)の由緒
ボードに寂光寺(江口の里)の由緒が書かれています。
当寺は大阪市文化財顕彰史蹟に指定されています。
書き下します。
当寺は摂津の国中島村大字江口に在り、宝林山普賢院寂光寺と号する、彼の有名な江口の君これを草創せしを以って一つに江口君堂と称す。
そもそも江口の君とは平資盛の息女にして名を妙の前といい、平家没落の後、乳母なる者の郷里即ち江口の里に寓せすが、星移り月は経るも、わが身に幸巡り来りざるを歎き、後遂に往来の船に棹の一ふしを込め、秘かに心慰さむ浅間しき遊女となりぬ。
天皇第七十九代六条帝の御宇、仁安二年長月二十日あまりの頃、墨染の衣に網代笠、草から草へ旅寝の夢を重ねて、数々のすぐれた和歌を後世に残せし西行法師が浪華の名刹天王寺へ詣でての道すがら、此の里を過ぎし時、家は南北の川にさし挟み、心は旅人の往来の船を想う遊女のありさま、いと哀れ果敢なきものかわと見たてりし程に、冬を待ち得ぬ夕時雨にゆきくれて、怪しかる賎が伏家に立寄り、時待つ間の仮の宿を乞いしに、主の遊女許す気色見せやらず、されば西行なんとなく
世の中をいとうふまでこそかたからめかりのやどりをおしむ君かな
と詠みおくれば、主の遊女ほほえみて、
世をいとふ人としきけは仮の宿に心とむなとおもふばかりそ
と返し、遂に一夜を仏の道のありがたさ、歌をたしなむおもしろさを語り明かしき。
かくて夜明けとともに西行は淀の川瀬をあとにして、雪月花を友とする歌の旅路に立出ぬ。出離の縁を結びし遊君妙女は心移さず常に成仏を願う固き誓願の心を持ちおれば、後生は必らず救わるべしと深く悟り、後仏門に帰依して、名を光相比丘尼と改め、此の地に庵を結びぬ。又自らの形を俗体に刻み、久障の女身と雖も、菩提心をおこし、衆生を慈念したるためしを、見せしめ知らしめ、貴婦賎女乃至遊君白拍子の類をも汎く無上道に入らしむ結縁とし給う。
かくて元久二年三月十四日、西嶺に傾く月とともに、身は普賢菩薩の貌を現わし、六牙の白象に乗りて去り給いぬ。御弟子の尼衆、更なり結縁の男女哀愁の声隣里に聞こゆ、終に遺舎利を葬り、宝塔を建て勤行怠らざりき。
去る明応の始、赤松丹羽守病篤く、医術手を尽き、既に今はと見えし時、此の霊像を十七日信心供養せられければ、菩薩の御誓違わず夢中に異人来りて赤松氏の項を撫で給えば、忽ち平癒を得たり。
爰に想うに妙の前の妙は転妙法輪一切妙行の妙なるべし、されば此の君の御名を聞く人も、現世安穏後生善処の楽を極めんこと、疑あるべからず。
其後元弘延元の乱を得て、堂舎仏閣焦土と化すも宝塔は悉し、宝像も亦儼然として安置せり。正徳年間普聞比丘尼来りて再建す、即ち現今のものにして、寺域はまさに六百余坪、巡らすに竹木を以ってし、幽遠閑雅の境内には君塚、西行塚、歌塚の史蹟を存す。
然れども、当寺に伝わる由緒ある梵鐘は、遠く平安朝の昔より、淀の川瀬を往き交う船に、諸行無情を告げたりし程に、はからざりき、遇ぐる大戦に召取られ、爾来鐘無き鐘楼は十有余年の長きにわたり、風雪に耐えつつも、只管再鋳の日を念願し来りしに、今回郷土史蹟を顕彰し、文化財の保持に微力を捧げんとする有志相集い、梵鐘再鋳を発願す。幸、檀信徒はもとより力、悉く十方村人達の宗派を超越せる協力と浄財の寄進を得たるを以て、聞声悟導の好縁を結ぶを得たり。日蓮宗寂光寺のボード
梵鐘は1954年9月に完成しました。
由緒は2016年10月づけで書かれています。
大阪市顕彰史跡「江口の里」は東淀川区南江口3-13(寂光寺前)にあり、史跡の時代は平安、建立年度は1961年度です。
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