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維摩詰の沈黙(不二の法門)

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維摩詰の沈黙(不二の法門)

古代インド、毘耶離(ヴァイシャーリー)の長ー大富豪・維摩詰(ゆいまきつ)は、在家でありながら深い悟りを開いていました。ある日、彼は病と称して臥せり、仏弟子たちが次々と見舞いに訪れました。舎利弗、目連、阿難……皆、維摩詰の智慧を試そうと法を説きましたが、維摩詰は一々、鋭く論破。ついに文殊菩薩が大勢の菩薩を伴い、病室へ。

部屋は狭く、千人以上が入っても広々。維摩詰は微笑み、「病とは何だ?」と問う。舎利弗は「無常の身ゆえ」と答えると、維摩詰は天女を現し、花を散らした。花は菩薩には付かず、小乗の弟子にはまとわりつく。「執着があれば花は付く。無執なら付かぬ。」弟子たちは恥じ入った。

文殊が問うた。「維摩よ、汝の病はどこに?」維摩詰は答えた。「衆生が病めば、菩薩も病む。衆生が癒えれば、菩薩も癒える。」これが「応病現病」——衆生を救うため、病を装う菩薩行。文殊はさらに、「では涅槃とは?」維摩詰は指を一本立て、黙した。部屋は静寂に包まれ、皆が忽然と悟った。

この沈黙こそ「維摩の雷音」。言葉では伝えきれぬ「不二の法門」——生と死、病と健康、衆生と仏は二つではなく一つのもの。維摩詰は富豪として俗世に生きながら、「不二」を体現。在家仏教の理想を示した。

『維摩経』に基づくこの話は、大乗の「方便」を象徴します。維摩詰は「沈黙」で、言語の限界を超えた。現代では、SNSの「言葉の洪水」の中で、維摩の沈黙は「聞く力」を教えてくれます。相手の痛みを「自分の病」と感じ、黙って寄り添うこと。それが真の慈悲。

維摩詰の部屋は「一室に十方」——狭い空間に宇宙を収める華厳の思想。スマホの画面も同じ。一つの投稿に無数の縁が絡む。私たちは「病」を装う必要はないが、「不二」を生きることはできる。怒りと和解、損と得は紙一重。維摩詰は笑って言う。「お前がすでに病でもなく、癒えてもいる。」その一瞬の沈黙が、永遠の対話を生んだ。

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