大阪メトロ谷町線でお寺めぐり

龍樹と少年の出会い(中観の悟り)

今日一日を逸話から
この記事は約2分で読めます。

古代インド、マガダ国のナーガールジュナ(龍樹)は、大乗仏教の哲学者として知られていました。ある日、山奥の庵で瞑想中、一人の貧しい少年が訪ねてきました。少年は病弱で、村人から「生まれ変わりの罰だ」と疎まれ、食べ物も満足に得られませんでした。「お坊様、なぜ私は苦しいのですか? 仏様はどこにいるのですか?」と涙ながらに尋ねました。

龍樹は静かに少年を見据え、問いました。「お前は『私』とは何だと思う?」少年は戸惑い、「体と心です」と答えました。龍樹は微笑み、近くの川を指しました。「あの水は、昨日と同じか?」少年は首を振りました。「雨で変わります。」「では、川はどこにある?」少年は黙りました。龍樹は続けました。「川は流れる水の連続で、固定した『川』はない。同じく、お前の体は細胞が日々入れ替わり、心は思いが移ろる。『私』という実体は、どこにもない幻だ。」

少年は混乱しましたが、龍樹は木の葉を拾い、風に飛ばしました。「葉は木から生まれ、風に舞い、土に還る。因縁が集まって『葉』と呼ぶが、独立した葉はない。お前も親・食べ物・空気など、無数の縁で成り立っている。『苦しむ私』は実在せず、ただ縁の変化だ。」

少年は夜通し考え、翌朝、龍樹に言いました。「では、苦しみはどう消えるのですか?」龍樹は答えました。「『私』という執着を捨てよ。すべては空(くう)——実体なく、縁起で生じる。空を悟れば、苦しみは夢のように消える。」少年は突然、笑いました。病の体が軽くなり、村へ帰る道すがら、花を摘み、鳥に分け与えました。

この話は『中論』のエッセンスを寓話化したもので、龍樹の「中観派」が説く「空」の思想を示します。空とは「無」ではなく、「固定した本質がない」こと。すべての現象は因縁により生滅し、独立した実体を持たない。だからこそ、執着から自由になれるのです。

現代では、SNSでの「自分像」や所有欲が苦しみを生みます。龍樹の教えは、「変わるのは自然」と受け入れ、流れに任せる生き方を示唆します。少年のように、苦しみを「私のもの」とせず、縁の連鎖と見れば、心は軽くなる。龍樹は毒蛇を友にし、毒を薬に変えたように、苦しみを悟りの糧に変える道を説きました。このエピソードは、哲学を超え、日々の自由への招待状です。

コメント お気軽に♬

タイトルとURLをコピーしました